2007年07月12日

墨俣城



 永禄4年(1561)一代の梟雄といわれた斎藤道三を殺して
美濃稲葉山城主となった斎藤義竜が死亡し、
その子の竜興が後を継ぐと、織田信長は美濃攻めにとりかかった。

 信長は美濃国内に橋頭堡を築くことを決意。
長良川や犀川などが合流し、洲の股の形となっている墨俣を築城の地に選んだ。
しかし、敵地であるため、妨害する敵を防ぎながら資材を運び、
短期間に築城しなければならず、難工事が予測された。

 永禄9年(1566)まず信長の重臣・佐久間信盛が築城工事に着手したが
斎藤方の攻撃を受けて失敗。次いで柴田勝家が着工するがこれまた失敗に終わる。

この時、まだ軽輩だった木下藤吉郎(後の豊臣秀吉)がこの難工事を買って出て、
信長の許可を得ると、藤吉郎はこのあたりの地形に
詳しい蜂須賀小六正勝ら近郷の野伏たちを駆り集め、
長良川の上流から資材を筏にくんで流し、あっという間に砦を築き上げてしまった。

世にこれを「秀吉の一夜城」と呼ぶ。

 永禄10年(1567)信長が難攻不落といわれた
美濃稲葉山城(岐阜城)を攻略するに及んで、
墨俣の砦は用済みとなり廃城となった。

一口話

秀吉は少年の頃、流浪に等しい生活を送り、
野伏の蜂須賀小六のもとで厄介になっていたこともあった。
その縁がいざという場合の役に立ったわけである。

 もちろん、一夜で築いたわけではなく、
およそ3千名を動員して三昼夜の突貫工事で
城に見せかけた砦を築き上げたという。

これを機に、木下藤吉郎は出世街道をひた走るが、
藤吉郎の配下となった蜂須賀小六も後には阿波一国の太守となったのだから、
墨俣城はまさに両人にとって出世城ともいうべき存在であった。


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