2007年07月16日
千姫

慶長8年(1603年)に秀頼と結婚し、乳母の刑部卿局とともに大坂城に入る。
夫秀頼とは従兄妹にあたるが、たいへん夫婦仲睦まじかったという。
慶長20年(1615年)の大坂夏の陣では、
祖父である家康の命により落城する大坂城から救出される。
その後、秀頼と側室の間の娘奈阿姫が処刑されそうになった時に
千姫は彼女を自らの養女にして命を助ける。
元和2年(1616年)、本多忠刻と結婚。
この時、津和野藩主坂崎直盛が輿入れの行列を襲って
千姫を強奪する計画を立てていることが発覚し、
直盛は自害(もしくは家臣により殺害)、坂崎家は改易処分となった(千姫事件)。
一説には大阪城落城の際、千姫を救出した者と千姫を結婚させるとの
家康の言葉を受けた直盛が、顔に火傷を負いながらも千姫を救出したが、
直盛の器量が悪いことから千姫が結婚を嫌がり、
結局美男の忠刻と結婚することになったという。
直盛の襲撃計画はこのことを恨んでのものとされ、長く信じられていたが、
現在ではそもそも大坂城で直盛が千姫を救出した話自体が
疑わしいとされている
(実際には堀内氏久という豊臣方の武将に護衛されて直盛の陣まで届けられた後、
直盛が秀忠の元へ送り届けた、というのが真相らしい)。
元和3年(1617年)、
本多家が播磨姫路に移封になった時には10万石の化粧料を与えられて
播磨姫君と呼ばれるようになる。
夫忠刻とも夫婦仲睦まじく、翌元和4年(1618年)には長女勝姫、
元和5年(1619年)には長男幸千代が生まれるが、
元和7年(1621年)に幸千代が3歳で没したのを始め、
その後は流産を繰り返すなど子宝に恵まれず(これは秀頼の崇りだと言われた)、
寛永3年(1626年)には夫・忠刻、姑・熊姫、実母・崇源院が次々と没するなど不幸が続き、
本多家を娘・勝姫と共に出て江戸城に入り、出家して天樹院と号す。
出家後は娘と二人で竹橋の邸で暮らす。
寛永5年(1628年)に勝姫は池田光政の元へ嫁ぎ、一人暮らしとなる。
池田家に嫁いだ一人娘のことを心配し、「天樹院書状」を送っている。
寛永20年(1643年)、鎌倉の東慶寺の伽藍を再建する。
正保元年(1644年)には迷信を避ける為に江戸城から来た、
3代将軍家光の側室お夏の方(後の順性院)とそこで生まれた
家光の次男・綱重と暮らすようになる。
このことで大奥でたいへん権力を持ったという。
明暦3年(1657年)の明暦の大火で竹橋の邸が焼失した時には、
紀伊徳川家の屋敷に一時厄介になる。
寛文6年(1666年)に江戸で死去。享年70。
錦絵や浪曲でよく語られる、御殿から男を誘い込んで弄び、
それらの男を全員殺したという「吉田御殿の話」が
伝説として生まれている。
祖父である家康の命により落城する大坂城から救出される。
その後、秀頼と側室の間の娘奈阿姫が処刑されそうになった時に
千姫は彼女を自らの養女にして命を助ける。
元和2年(1616年)、本多忠刻と結婚。
この時、津和野藩主坂崎直盛が輿入れの行列を襲って
千姫を強奪する計画を立てていることが発覚し、
直盛は自害(もしくは家臣により殺害)、坂崎家は改易処分となった(千姫事件)。
一説には大阪城落城の際、千姫を救出した者と千姫を結婚させるとの
家康の言葉を受けた直盛が、顔に火傷を負いながらも千姫を救出したが、
直盛の器量が悪いことから千姫が結婚を嫌がり、
結局美男の忠刻と結婚することになったという。
直盛の襲撃計画はこのことを恨んでのものとされ、長く信じられていたが、
現在ではそもそも大坂城で直盛が千姫を救出した話自体が
疑わしいとされている
(実際には堀内氏久という豊臣方の武将に護衛されて直盛の陣まで届けられた後、
直盛が秀忠の元へ送り届けた、というのが真相らしい)。
元和3年(1617年)、
本多家が播磨姫路に移封になった時には10万石の化粧料を与えられて
播磨姫君と呼ばれるようになる。
夫忠刻とも夫婦仲睦まじく、翌元和4年(1618年)には長女勝姫、
元和5年(1619年)には長男幸千代が生まれるが、
元和7年(1621年)に幸千代が3歳で没したのを始め、
その後は流産を繰り返すなど子宝に恵まれず(これは秀頼の崇りだと言われた)、
寛永3年(1626年)には夫・忠刻、姑・熊姫、実母・崇源院が次々と没するなど不幸が続き、
本多家を娘・勝姫と共に出て江戸城に入り、出家して天樹院と号す。
出家後は娘と二人で竹橋の邸で暮らす。
寛永5年(1628年)に勝姫は池田光政の元へ嫁ぎ、一人暮らしとなる。
池田家に嫁いだ一人娘のことを心配し、「天樹院書状」を送っている。
寛永20年(1643年)、鎌倉の東慶寺の伽藍を再建する。
正保元年(1644年)には迷信を避ける為に江戸城から来た、
3代将軍家光の側室お夏の方(後の順性院)とそこで生まれた
家光の次男・綱重と暮らすようになる。
このことで大奥でたいへん権力を持ったという。
明暦3年(1657年)の明暦の大火で竹橋の邸が焼失した時には、
紀伊徳川家の屋敷に一時厄介になる。
寛文6年(1666年)に江戸で死去。享年70。
錦絵や浪曲でよく語られる、御殿から男を誘い込んで弄び、
それらの男を全員殺したという「吉田御殿の話」が
伝説として生まれている。
Posted by camel at 22:26│Comments(0)
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