2007年07月21日

人取橋の戦い 伊達vs畠山・葦名・佐竹



 天正13年10月、伊達輝宗は二本松城主畠山義継に拉致、殺害された。
父の敵を復する伊達政宗は二本松城を猛攻したが、落とせなかった。

 そうして、11月に入り、"反伊達"の連合軍である
常陸の佐竹、会津の蘆名、南奥の岩城・石川・白河氏が3万の軍勢を率い、
須賀川に結集した。

畠山氏救援が名目だが、畠山氏滅亡後の
政宗の南下を阻止するための決起であったと見られる。
常陸の佐竹義重が連合軍の中核となった意味はそこにあったといえる。

 政宗はこの報に接し、最上に対する押さえに二千、
大崎に対する押さえに三千人を配し、総勢八千人を率いて、
奥羽街道と会津街道の交わる要衝の地本宮に布陣した。

 その後、政宗は四千人を率いて南観音堂山に陣を敷き、
別に伊達成実は千余人を率いて高倉近くの小山に陣した。
連合軍を大きく三隊に分け、右翼は二階堂・石川・白河・畠山の諸将で、
一万の軍勢をもって高倉城へ、中央の蘆名と相馬勢一万は荒井方面に進攻、
左翼の佐竹勢一万は会津街道を進撃して伊達軍の本陣に迫った。

 特に人取橋付近は一大乱戦の場となり、
本陣と成実軍との間が戦場と化したので孤立した成実は死を覚悟して背面から敵陣に突入し、
凄惨な戦闘となった。

 そんな状況下で、七十三歳の鬼庭良直は連合軍の猛攻にたまらず後退する
伊達本隊の殿軍を引き受けて人取橋を渡り、壮烈な戦死を遂げた。
この良直らの活躍によってようやく難を逃れた政宗は岩角城に退いた。

 連合軍の猛攻はなおも続行されたが、
観音堂山の本陣を抜くことはできず、やがて日没を迎えたため、戦闘を中断した。 
夜を迎えたが、連合軍の軍師役を務めていた佐竹義政が家僕に暗殺された事件や、
水戸勢が佐竹領に攻め込むという急報がもたらされたため、
佐竹軍は急遽撤退を始め、中核の佐竹にならい諸将も撤退を始め、
この戦いは終わった。

 伊達軍がこの戦いで持ちこたえた要因としては、
二本松勢を城に釘付けにしたこと、成実軍が背後を突いたことで
連合軍の観音堂山の伊達本陣への攻撃が成功しなかったことなどが挙げられる。

 この戦いは政宗生涯の戦いのうちでも激闘をもって聞こえ、
彼の武名が高まり、伊達氏の運命を大きく開いた戦いであった。


良かったらみなさんも一度見てみてください。 にほんブログ村 歴史ブログへ

認証文字を入力してください