2007年12月09日
武田家 24将 秋山信友

1527~1575。
秋山氏は武田と同じ甲斐源氏の一族。
武田始祖・武田信義の弟・加賀美遠満の長男、秋山 太郎光朝からなる。
信友は武田氏に仕えた12代目の 当主。
天文10年(1541)、元服した信友は翌天文11 年・22歳の主君晴信の諏訪攻めの軍に
近習衆として 初陣を飾る。
この初陣でめざましい活躍をした信友 は50騎の侍大将に抜擢される。
天文16年には上伊那 郡代として高遠城の衛将に。
同23年、伊那で知久・ 座光寺らの反乱が起こり、
神之峰城の戦いで勝利を おさめた信友は全伊那の郡代となる。
弘治2年には 高遠城代となり、相備え200騎を加えた。
永録4年の 川中島の合戦には、秋山は隣国の織田信長の牽制の ため、参加しなかった。
永禄10年、信玄の6女於松 と、信長の嫡子信忠との婚約が整った際、
結納の返礼の使者に秋山が選ばれ、信玄の名代の役目を果た した。
この縁組に反対するものもあったが、『織田 とは友好を保った方が得策』と秋山が勧めたと言う。
秋山の外交官としての能力を信玄も信頼したのだろう。
元亀3年、秋山は信玄の西上作戦の先陣を受けて美濃・岩村攻めに出陣。
織田と武田の盟約はこれ以前の三方が原で、織田が徳川に援軍を出したことで既に壊れてい る。
岩村城主・遠山景任は信長の叔母を妻に迎え、織田の傘下に入っていた。
しかし、景任 は野戦の傷が元で死亡。(病死説もアリ)
信長の末子・御坊丸を養子として城主に迎え篭城を 続けていたが、
秋山は景任の未亡人、信長の叔母を妻に迎えることと城兵の命を助けることを条件に
無血開城に成功する。
御坊丸は人質として甲府に送られ、織田と武田は全面戦争状態に突入。
天正元年・(元亀4年)信玄が死去、その2年後の天正三年設楽ガ原で勝頼が敗北
武田は撤退せざるを得なくなり秋山の岩村城は敵中に孤立してしまう。
織田信忠の軍に攻め られた秋山は城兵の助命を条件に降伏。
しかし信長は約束をやぶり、城兵を騙し打ちにして 皆殺しにしてしまう。
そして秋山と、敵将の妻になった自分の叔母を共に逆さ磔と言う
戦陣の作法をも無視した極刑にかけるのである。
天正3年12月11月20日。設楽ガ原で散った仲間 に遅れること半年。
岩村町の妙法寺・山梨県塩山の恵林寺境内に墓がある。
Posted by camel at 18:51│Comments(0)
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