2007年12月18日
応仁の乱
応仁の乱は室町時代中頃の
応仁元年(1467)に起こった
内乱11年の長きに渡り
争いが続き、
京都の町は焦土と化したの
でした。
応仁の乱は複雑怪奇、
細川勝元と山名宗全の権力争い、将軍、足利義政の後を継ぐ義視(よしみ)と義尚(よしひさ)の継嗣
(けいし)争い、
さらに斯波、畠山の両管領家の相続争いなどが絡合って勃発した戦いでした。
何のために、誰の為に何が目的で戦ったのか?、
調べれば調べるほどによく判らぬ応仁の乱です。
一説には東軍16万人、西軍が11万人もの将兵が入れ替わり立ち替わり戦い、
細川勝元を頭とする東軍の陣地は犬馬場、西蔵口、今の相国寺辺り、地名として
馬場と云う名が歴史を伝えます。
考古資料館前にある”陣”碑
一方の山名宗全を頭とする西軍の陣地は今の五辻通大宮東の山名宗全邸跡辺り、西陣と云う地名の興りであったりします。
西陣があるなら、東陣あった筈で、実際に往時はその辺りを東陣と呼ばれて
いたこともあったようですが、その後の歴史によって消えてゆきます。
西陣はその後、ご存じのように西陣織物が発達する事によって、その名も後世に
留めてゆくことになります。
下剋上の時代、当時の室町幕府は江戸幕府などとは異なり、全国を統一しているとはとても云える状況ではなかった。
諸国では守護大名の反や、豪族の争いが絶えず、時の八代将軍、足利義政はふりかかる難題を避けるかのように政治より芸術を好み、酒好きで、享楽にふけっていたとも伝わります。
義政の夫人は日本一の悪女とも揶揄(やゆ)される日野富子、政治に関心のない義政にとって代わり、口を挟むどころか実権を握っていたのかも知れません。
当時、将軍の夫人は日野家から迎えると云う慣例から富子は義政の正室についた
けれど、その時、義政の側室に今参局(いままいりのつぼね)と云う女性がおり
ました。義政はどちらかと云えば側室にうつつを抜かしていたようで、このことも後の争乱の火種となります。
やがて富子は次期将軍となるべき男児を産みますが、間もなく亡くなってしい、
いずこからともなく「お今方が呪い殺した」との噂、義政は琵琶湖の小島に今参局を流しますが、往路、何者かに暗殺されます。
子供を亡くし落胆する義政は、仏門に入っていた弟の義視を還俗させて、次期将軍に据えようと画策しますが、皮肉なことに義視が元服式を終えた数日後に、富子は男児、後の九代将軍となる義尚を出産します。
ここまでが応仁の乱の背景でしょうか、時を同じくして、細川勝元と山名宗全が
権力で争い、斯波、畠山の両管領家は相続で争い合っている最中で、一方は富子、義尚側に加担し、また一方は義視側に加担する、当の義政は、あちら側に付いたり、こちら側に付いたりのどっち付かず。
陣地は洛中だけれど、大将の領地は他にある。諸国の大名もあっちに付いたり、
こっちに付いたりで、みんなが出張、この場合は出兵か、して来て戦いをくり
広げるものだから、いつまで経っても戦乱は収まらず、京都の町は焦土と化したのでした。
悪女、富子と云われる所以は、今参局の暗殺は富子の企てと云う説があったり、
朝廷が設置した関所を幕府のものとし、通行税を徴収、私服を肥やしたり、高利貸しを商い、こともあろうか、戦費に窮する両軍の大名達に貸し付けて高利を
むさぼっていたと云われます。
みんな富子の為に戦をやっていた???
そんな応仁の乱も、大名達が飽きたのか、借金で首が回らなくなったのか、馬鹿馬鹿しさに気が付いたのか、義政が義尚に将軍職を譲ったことで、何となくの雰囲気、幕府によって「天下静謐(せいひつ)」の
祝宴が催され応仁の乱は終わったのでした。
細川勝元と山名宗全の権力争い、将軍、足利義政の後を継ぐ義視(よしみ)と義尚(よしひさ)の継嗣
(けいし)争い、
さらに斯波、畠山の両管領家の相続争いなどが絡合って勃発した戦いでした。
何のために、誰の為に何が目的で戦ったのか?、
調べれば調べるほどによく判らぬ応仁の乱です。
一説には東軍16万人、西軍が11万人もの将兵が入れ替わり立ち替わり戦い、
細川勝元を頭とする東軍の陣地は犬馬場、西蔵口、今の相国寺辺り、地名として
馬場と云う名が歴史を伝えます。
考古資料館前にある”陣”碑
一方の山名宗全を頭とする西軍の陣地は今の五辻通大宮東の山名宗全邸跡辺り、西陣と云う地名の興りであったりします。
西陣があるなら、東陣あった筈で、実際に往時はその辺りを東陣と呼ばれて
いたこともあったようですが、その後の歴史によって消えてゆきます。
西陣はその後、ご存じのように西陣織物が発達する事によって、その名も後世に
留めてゆくことになります。
下剋上の時代、当時の室町幕府は江戸幕府などとは異なり、全国を統一しているとはとても云える状況ではなかった。
諸国では守護大名の反や、豪族の争いが絶えず、時の八代将軍、足利義政はふりかかる難題を避けるかのように政治より芸術を好み、酒好きで、享楽にふけっていたとも伝わります。
義政の夫人は日本一の悪女とも揶揄(やゆ)される日野富子、政治に関心のない義政にとって代わり、口を挟むどころか実権を握っていたのかも知れません。
当時、将軍の夫人は日野家から迎えると云う慣例から富子は義政の正室についた
けれど、その時、義政の側室に今参局(いままいりのつぼね)と云う女性がおり
ました。義政はどちらかと云えば側室にうつつを抜かしていたようで、このことも後の争乱の火種となります。
やがて富子は次期将軍となるべき男児を産みますが、間もなく亡くなってしい、
いずこからともなく「お今方が呪い殺した」との噂、義政は琵琶湖の小島に今参局を流しますが、往路、何者かに暗殺されます。
子供を亡くし落胆する義政は、仏門に入っていた弟の義視を還俗させて、次期将軍に据えようと画策しますが、皮肉なことに義視が元服式を終えた数日後に、富子は男児、後の九代将軍となる義尚を出産します。
ここまでが応仁の乱の背景でしょうか、時を同じくして、細川勝元と山名宗全が
権力で争い、斯波、畠山の両管領家は相続で争い合っている最中で、一方は富子、義尚側に加担し、また一方は義視側に加担する、当の義政は、あちら側に付いたり、こちら側に付いたりのどっち付かず。
陣地は洛中だけれど、大将の領地は他にある。諸国の大名もあっちに付いたり、
こっちに付いたりで、みんなが出張、この場合は出兵か、して来て戦いをくり
広げるものだから、いつまで経っても戦乱は収まらず、京都の町は焦土と化したのでした。
悪女、富子と云われる所以は、今参局の暗殺は富子の企てと云う説があったり、
朝廷が設置した関所を幕府のものとし、通行税を徴収、私服を肥やしたり、高利貸しを商い、こともあろうか、戦費に窮する両軍の大名達に貸し付けて高利を
むさぼっていたと云われます。
みんな富子の為に戦をやっていた???
そんな応仁の乱も、大名達が飽きたのか、借金で首が回らなくなったのか、馬鹿馬鹿しさに気が付いたのか、義政が義尚に将軍職を譲ったことで、何となくの雰囲気、幕府によって「天下静謐(せいひつ)」の
祝宴が催され応仁の乱は終わったのでした。
Posted by camel at 19:45│Comments(0)
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